◆12月2日の朝日新聞朝刊「〈政治断簡〉左右軸の対立 国と社会、どちらが先か」という記事は非常に興味深い内容でした。自民党や日本維新の会の石原代表が「国家」という言葉を強調するのに対し、穏健保守から中道リベラルまでをターゲットとしたい民主党はマニフェストで「社会」という言葉を多用しているという指摘です。

    ◆ただ、疑問に感じる場所もありました。記事の中では「(国家と社会の)どちらをとって、どちらかを捨てるというような話ではない」「社会は国家ができるよりも前に存在しただろうし、できあがった国家がイコール社会でもない。日本の中にはたくさんの社会が存在する」という指摘をしていますが、そもそも国家と社会、いずれの言葉の定義も弱いように感じます。

    ◆そもそも国家とは何でしょう?広辞苑では「一定の領土とその住民を治める排他的な権力組織と統治権とをもつ政治社会」とあります。現在の国家は近代国家ですから、近代的な政府を含む社会ということでしょうか?この場合、記事の記述とは異なり「国家=社会」ということにもなります。

    ◆「愛国心」という言葉が昨今強調されていますが、この言葉の意味する所が非常に分かりにくいので、議論を呼びかねません。仮に「国家=政府」だとすれば、愛国心は「政府への忠誠」という印象を与えます。それは戦前の政府への反対を許さない社会の復活というイメージを醸成しかねない。問題は愛国心の結果の発言・行動が自由であるかどうかです。

    ◆私の知人に保育士がいるのですが、その同僚が先日福島の保育園に砂を届けたと聞きました。福島の保育園では(全域ではなく地域によってかもしれませんが)、子供が外にいる時間は制限され、砂場で遊ぶことはできず、葉っぱに触ることもドングリを拾うこともできないそうです。持って行ったドングリを子供たちが喜んで手にしたそうです。それが90年も続くとのことでした。

    ◆郷土をそこまで荒廃させた原発事故を前に、それでも原発を続けようという主張は果たして愛国的と言えるのか。そういう議論も可能です。一方で、原発を維持することの意義も考えられるでしょう。これも愛国故の主張です。同じ愛国主義者でも全く正反対の主張を掲げることがある。その場合に、一方の主張に「愛国」という錦の御旗を付与することは適切ではありません。

    ◆ドイツでは民主主義を破壊する政党は活動を禁止されています。民主主義の維持は言論や思想の自由に優先されています。もし、ここに愛国という概念を持ち込むならば、民主主義の破壊のみが非「愛国」的であり、その上での議論はどのような主張であれ「愛国」を前提にしたものとして寛容に対処しているのかもしれません。ドイツでは愛国心に対する信頼が厚いともいえます。

    ◆ケネディ大統領は「国が何をしてくれるかではなく、国に何をできるかを考えよう」という演説をしましたが、これもアメリカだからできる演説だろうと筆者は考えます。自ら独立を勝ち取り、自由な社会を建設し、それを守るために政府を作ったという建国のストーリーを持つアメリカ人だからこそ、胸に響くのでしょう。そして考えた結果、何をするかは自由です。

    ◆人がどの程度国を愛しているかを測ることはできませんが、国を破壊しようとしない限り(ドイツの例によれば民主的な国を破壊しない限り)、どのように国を愛するかは自由だと筆者は考えます。愛国者はこうあるべきという議論ではなく、これをしない限り誰でも愛国者であると、人を幅広く信頼することが必要です。

    ◆逆に、君が代を歌うように強制する、日の丸に敬礼する、そんな特定の行動を強制して、愛国の証を立てさせる国家・社会は不適切です。君が代の歌唱中に唾を吐く、起立しない、日の丸を焼く、といった対立を煽る行為は慎むべきと思いますが、一方で国を愛しているからこそ君が代・日の丸に反対する人もいますし、反対そのものは自由です。

    ※君が代は声に出して歌わなければならない、日の丸の前では敬礼しなければならないという細かな決めごとは不要だと考えます。

    ◆国民に愛国を求め、その心を疑う政治はもう卒業すべきです。「愛国」はもはや当然であり、その結果の言動に対する寛容さこそが問われています。中国の反日デモを見れば、「愛国」であっても違法行為は罰すべきということは一目瞭然です。逆に言えば、違法行為でなければ、人は自分の意思に従って発言し、行動する権利があります。問題はむしろ権利です。

    ◆安倍政権期に改正された教育基本法で謳われている「愛する」対象は「我が国と郷土」です。教育の目標には「平和で民主的な国家及び社会の形成者」の育成が含まれています。国、郷土、国家、社会という言葉が使用されていますが、それぞれの言葉の意味は互いに重なりあっています。しかし、法の中に「権利」がない。

    ◆本当に重視すべきは、人間の権利に対する深い理解と尊重ではないかと考えます。「平和で民主的な国家及び社会」という言葉はまだ不十分かもしません。いじめはなぜ起こるのか。道徳の問題というより、いじめが人間の権利を侵害し、罰せられる行為だという認識の不足ではないかと考えます。そして事実、罰は軽く、罰するどころか大人が隠ぺいしようとさえしている。

    ◆国家と社会が対立しているのではなく、権利をどこまで擁護する国家や社会(依然言葉の定義は不明確ですが)にするのか。過激な議論の中には徴兵制に言及するものもあります。「権利に対する義務が弱い」といった日本維新の会の石原代表の指摘に見られるように、新しく義務を課していく社会に変えていくのか、が問われているのではないかと考えます。



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    2012.12.03 Mon  - 保守・リベラル -   コメント 1件

    コメント

    No title
    なかなか面白いブログですね!
    タイトルに惹かれてきました。
    国家と社会の定義ですが、国家は過去と現在と未来の世代の契約によって成り立つものであり、社会とは現在に生きる人のみの契約で成り立つものであると、中野剛志氏がそういう趣旨のことを述べていたと思います。
    私は個人単位での権利や自由の追求を求めすぎると、かえって抑圧的な社会になってしまうのではないかという立場であります。
    例えば、子供に自由を植え付ける過ぎると悪い事をして他の子供の権利を奪ってしまったりするといったことです。
    むしろ私は個人単位での権利や自由を抑制することで、社会全体的には最低限の自由が保障されるのではないかと思います。
    これも例えれば、子供にやってはいけないことをしっかりと教え、時として自由を奪うことによって、他の子供の権利を尊重するようになるのではないかということです。
    また、国家と言う枠組みを考えれば、過去の世代が築いた財産を現役世代が食いつぶすようなことがあってはならないでしょうし、それを未来の世代へと繋げていくための義務を現役世代が負っていると思います。
    現役世代だけが得をしないように、現役世代の自由や権利といったものはある程度我慢してはならないと思います。
    しかし国家や社会、権利や義務について考えるのは大変難しいことですよね。

    2013.01.24 Thu l no name. URL l 編集

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