◆デフレについての解釈は経済学者間でも多種多様です。本稿では、経済の現状を考える上でデフレをどうとらえるか、という問題意識から二つの主張をご紹介いたします。参考資料は、岩田規久男氏著「デフレと超円高」(講談社現代新書)および、野口悠紀雄氏著「日本を破滅から救うための経済学」(ダイヤモンド社)です。

    ◆岩田氏はデフレを「貨幣的現象」であると著書で主張しています。教科書で散見される表現を引用すると、デフレは「通貨価値の上昇」ですので、岩田氏が著書で記載した「貨幣的現象」という言葉は、一般通念上も違和感のない表現と考えられます。

    ◆岩田氏はこの視点に立って、通貨価値の上昇の原因が何で、どのような政策をとればデフレを脱却できるかという主張を展開します。通貨価値の上昇は「期待インフレ率」の低水準またはマイナスに原因があり、従って「期待インフレ率」をプラスに転換し、かつ上昇させることでデフレ脱却を図るべきという処方箋を主張しています。

    ※期待インフレ率=将来に期待(予想)される物価の上昇率。

    ※なお、岩田氏は「期待インフレ率」を「予想インフレ率」と表現していますが、本稿では野口氏の著作にある「期待インフレ率」という表現に統一します(予想インフレ率=期待インフレ率)。

    ◆「期待インフレ率」は短期金融市場、資本市場、外国為替市場等で専門に取引している人々の予想の変化によって変動し、上記の人々は中央銀行が採用する金融政策によって通貨価値に関する予想を立てる、と記載されています。例えば、中央銀行が金融緩和を行うと、投資が進み、通貨の供給量が増加すると考えられるため、通貨価値の低下、すなわちインフレ予想が成立します。

    ◆岩田氏は、日本銀行(以下、日銀)が2000年初頭から量的緩和政策を実施するまで十分な金融緩和を行わなかったために、通貨の供給量が需要を下回った結果、「期待インフレ率」は低水準もしくはマイナスにあったとしています。その根拠として、マネタリーベースの伸び率が低下する場合に、期待インフレ率が低下していることを指摘しています。

    ※マネタリーベース:現金+銀行の日銀当座預金(上記岩田氏著書より)

    ◆日銀が採用した量的緩和政策は、各銀行が保有する国債等の金融資産を日銀が買い取り、各銀行の日銀当座預金口座残高を増やす政策です。各銀行の金融資産は減り、いわば手持ち現金が増えて行くことで、通貨供給量の増加を図ります。ただし、これには即効性はありません。通貨供給量が増えれば絶対に通貨価値は下落する(単純な貨幣数量説)ということはありません。

    ◆岩田氏は、デフレ脱却には、通貨価値がインフレ基調に転じるという市場の予想形成が必要だとしています。仮に、通貨価値が現実に低下し始めた時に、日銀がインフレを恐れ、すぐに金融引き締めに転じるだろう、と市場が予測する場合、通貨価値は下落しない。中央銀行のインフレ志向が市場に信頼されて、初めて、インフレ基調に転じる(デフレから脱却できる)としています。

    ◆そのため、期待インフレ率が重要になります。期待インフレ率は市場が予測する将来のインフレ率ですから、一時的に量的緩和を実施しても、本当にインフレに転じると市場が予測しない限り(期待インフレ率が上昇しない限り)、デフレ脱却は難しい。2000年代の量的緩和政策がデフレ脱却に十分に寄与しなかった原因は、日銀の金融政策への不信にあるということになります。

    ◆しかし、筆者は岩田氏の主張に完全に納得ができていません。著書での説明が不十分で、学術論文ではもっと精緻な論証が行われているのかもしれませんが、著書にある数値データからは、岩田氏の主張の正当性を証明できないと考えます。

    ◆岩田氏は日米両国におけるマネタリーベースの増加率と期待インフレ率の関係を下図の通り記載しています。

       H24.1.21マネタリーベースの増減

    ◆図にある通り、マネタリーベースの増加率が低下すると、期待インフレ率も低下します。しかし、マネタリーベースの増加率がマイナスであるにもかかわらず、期待インフレ率はマイナスになっていない時期があります。市場は中央銀行が日銀当座預金を減少させていながら、低水準とはいえ、インフレを予想するという矛盾した見方を持っていたことになります。

    ◆また、アメリカのデータを見ると、マネタリーベースの増加率が上昇するに連れて、期待インフレ率も急激に上昇していますが、日本は同水準でも期待インフレ率の上昇角度は緩やかです。なぜ、日米両国でこのような差が発生するのでしょうか。岩田氏の著書ではこの点への説明がありません。

    ◆岩田氏は中央銀行の政策レジームが信頼されると、通貨価値をインフレ基調に転じさせる(デフレから脱却できる)としています。ならば、期待インフレ率は数値では測れない「信頼」で定まることになります。マネタリーベースの操作は、日銀の金融政策に対する信頼獲得策の一つであり、数値データは、この政策だけでは不十分だが効果はある、という論理なのでしょうか。

    ◆これを意地悪く解釈すれば、著書のデータは多少矛盾があるが、マネタリーベースの操作は一定の効果を発揮しており、従って、完全な信頼獲得策をとればデフレから脱却できるという論理とも考えられます。確かに、それならば、マネタリーベースの増減と期待インフレ率が完全に整合しないとしても(矛盾しても)、問題はないといえるかもしれません。

    ◆しかし、さらに意地悪く考えると、3が奇数だから、「3の倍数は絶対に奇数」と主張した場合、どうなるでしょうか。実際は6が偶数なので、3が奇数であっても「3の倍数は絶対に奇数」ではありません。これと同じ考え方を持つと、マネタリーベースの操作が一定の効果を示しても、従って日銀の金融政策によってデフレを脱却できる、と断言することは難しいと考えます。

    ◆著書では「それでも納得しない読者のために」という付論がついています。長期国債を日銀が大量に購入しもインフレにならない場合、税金自体が不要で、日銀が国家予算の総額に相当する国債をまるごと購入しても問題ないということになる(無税国家が誕生する)、と指摘しています。

    ◆しかし、これは極論です。マネタリーベースがマイナスでも期待インフレ率がプラスになることもあるのですから、当然、国家予算分の国債を買えばインフレになるでしょう。むしろ、マネタリーベースがマイナスであっても、期待インフレ率がプラスになる原因を考える必要があります。期待インフレ率は金融政策に対する信頼以外に、別の要素で動く可能性はないのでしょうか?

    ◆岩田氏の著書は新書であるために簡潔に執筆されているのかもしれませんが、どうも100%信頼できるのか不明です。岩田氏とは全く別の主張を読み、対比する必要があると考えます。そこで野口氏の著作のデフレに関する説明を読みたいと考えます。

    ◆野口氏は、デフレは通貨価値の上昇であるため、純粋なデフレは、「全ての物価が一様に下落する減少」と指摘しています。しかし、実際には工業製品が大きく下落している一方で、サービスの価格はほとんど低下せず、価格は「一様に」下落している訳ではない、と主張しています。野口氏は新興国の台頭によって工業製品価格が下落したことを指摘しています。

    ◆岩田氏は野口氏のような考え方に対する反論を著書内で記載しています。要約すると、一部の輸入財価格が下落すると、消費者はお金に余裕ができるため、他のモノ・サービスを買うという行動に出る可能性がある(貯蓄する可能性もある)。その場合、物価が上がるものもあれば、下がるものもあるはずだが、実際には輸入品目だけでなく、非輸入品目の価格も下落した。

    ◆野口氏は「サービスの価格はほとんど低下しなかった」とし、岩田氏は「非輸入競争財の価格までも軒並み下がっている」としています。両者のデフレに対する認識の違いは、実際の経済現象について全く正反対に評価していることが原因と考えられます。

    ※「その2」に続きます。




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    2012.01.21 Sat  - 経済 -   コメント 4件

    コメント

    No title
    エントリありがとうございます。
    まだ途中ですが、意見させてください。

    >マネタリーベースの増加率がマイナスであるにもかかわらず、期待インフレ率はマイナスになっていない時期があります。

    これはどういう意味でしょうか?

    僕のグラフの見方がおかしいかもですが、増加率がプラスの時には期待(予想)インフレ率のポイントが高い、増加率のマイナスの時にはポイントがそれより低いという相関が読み取れます。



    >日本は同水準でも期待インフレ率の上昇角度は緩やかです。なぜ、日米両国でこのような差が発生するのでしょうか。

    日本では、IS-LM分析でいうところの、利子率に対する民間投資の反応度が小さいために傾きがIS曲線、LM曲線が急になり、マイナスで交わる曲線になっていると思われます(名目では金利は0以下になれない、実質利子率は高いため反応度が小さい)。

    アメリカはそれが緩やかな曲線のため、利子率に対する民間投資の反応度が大きいからだと思います。
    追記:リーマンショック後は不況で、日本のように緩和しても、同様に反応度が小さくなっているので回復が遅いともいえます。ですが、アメリカの緩和は日本と違い少なくともデフレを防ぎました。


    >◆野口氏は、デフレは通貨価値の上昇であるため、純粋なデフレは、「全ての物価が一様に下落する減少」と指摘しています。しかし、実際には工業製品が大きく下落している一方で、サービスの価格はほとんど低下せず、価格は「一様に」下落している訳ではない、と主張しています。野口氏は新興国の台頭によって工業製品価格が下落したことを指摘しています。

    工業製品の生産性の向上に対し、国内のサービスの価格は人件費なので下がりにくい(実際には低下した)。
    また、新興国の台頭による工業製品の低下は、日本だけでは無く、アメリカでもそうでしたがデフレになっていません。
    2012.01.21 Sat l ラヴログ. URL l 編集
    Re: No title

    コメントありがとうございます。改めて、続きを記載したいと考えますが、ご質問いただいた箇所について返信いたします。


    > >マネタリーベースの増加率がマイナスであるにもかかわらず、期待インフレ率はマイナスになっていない時期があります。
    >
    > これはどういう意味でしょうか?
    >
    > 僕のグラフの見方がおかしいかもですが、増加率がプラスの時には期待(予想)インフレ率のポイントが高い、増加率のマイナスの時にはポイントがそれより低いという相関が読み取れます。
    >

    実際にグラフを見ますと、例えばマネタリーベースの増加率が-8%の時に、期待インフレ率は0.5%(06/3-08/8量的緩和解除後)となっていますが、これは日銀当座預金等が減少しているにも関わらず、市場は低水準でもインフレがおこると予測している、ということになります。

    マネタリーベースの増加によって期待インフレ率が上昇するとすれば、マネタリーベースが下落する場合に、なぜ、デフレを予測せず、引き続きインフレを予測するのだろうか、という疑問です。

    もちろん、マネタリーベースの増加(下落)だけが期待インフレ率を押し上げる(押し下げる)訳ではなく、岩田氏もそのように説明していませんが、なぜ、こういう数値について著書で説明がないのだろうか、と考える次第です。

    私としては、マネタリーベースが減少しても、インフレが進むと市場が予測したならば、その根拠はマネーサプライが増える、すなわち民間投資(信用創造)が進むと市場が予測したからではないか、と考えます(とすると日銀が発表した通り、デフレは脱却したことに・・・?岩田氏の主張と大きくかい離していると考えます)。

    ※なお、本文では記載しませんでしたが、岩田氏はリーマン・ショック後の景気後退期は、マネタリーベースにかかわらず、期待インフレ率が大幅に下落したとして、グラフにはしていない、という記載があります。この説明にも違和感を覚えています。市場がインフレを期待した理由は、マネタリーベース以外に他があるのではないか、と考えています(GDPのプラス成長orマイナス成長)。


    > >日本は同水準でも期待インフレ率の上昇角度は緩やかです。なぜ、日米両国でこのような差(が発生するのでしょうか。
    >
    > 日本では、IS-LM分析でいうところの、利子率に対する民間投資の反応度が小さいために傾きがIS曲線、LM曲線が急になり、マイナスで交わる曲線になっていると思われます(名目では金利は0以下になれない、実質利子率は高いため反応度が小さい)。
    >
    > アメリカはそれが緩やかな曲線のため、利子率に対する民間投資の反応度が大きいからだと思います。
    >

    ご指摘のように記載しようと思っていませんでしたが、その通りだと思います。しかし、なぜ日米でそのような民間投資の反応度の差が発生するのだろうか、と考えています。


    > >◆野口氏は、デフレは通貨価値の上昇であるため、純粋なデフレは、「全ての物価が一様に下落する減少」と指摘しています。しかし、実際には工業製品が大きく下落している一方で、サービスの価格はほとんど低下せず、価格は「一様に」下落している訳ではない、と主張しています。野口氏は新興国の台頭によって工業製品価格が下落したことを指摘しています。
    >
    > 工業製品の生産性の向上に対し、ですが、国内のサービスの価格は人件費なので下がりにくい(実際には低下した)。
    > また、新興国の台頭による工業製品の低下は、日本だけでは無く、アメリカでもそうでしたがデフレになっていません。

    岩田氏が指摘しているように「物価が上がるものもあれば、下がるものもある」結果、日本では全体平均として物価が下がり、アメリカでは物価は上がったのかもしれません(アメリカのデータは持っていません)。

    野口氏は教科書で記載されるデフレではない、と認識しているようです。私はこの野口氏の意見にも余り納得できてはいません。モノ・サービスによって価格下落に差が出ることは当然あると思いますので、厳格に等率で価格が下落しなければならない、ような定義づけですと、デフレ・インフレとも成立しないのではないかと思います。

    ただ、岩田氏は非輸入材も価格下落したため(相対的に差があっても)、デフレは新興国が原因ではなく、貨幣的現象とし、野口氏は貨幣的現象である以上、価格下落に相対差があるのはおかしいため、教科書的なデフレではない、という見方に立っているようです。

    貨幣的現象という点では両者とも意見が一致しているようですが、では実際にデフレか否かという議論については、どちらが正しいか、私ははっきりとは断じることができません。



    2012.01.21 Sat l Liberalist77. URL l 編集
    No title
    返信ありがとうございます。

    グラフの件は、つまりインフレ率がマイナス値ではないことについて、ということですね。
    たしかグラフは物価連動国債と10年国債の差を期待インフレ率としていましたが、この時期の消費者物価指数はわずかながらプラスでしたので、長期金利は0パーセントにはならないことも含めマイナスの値になっていないのではないでしょうか。ですがポイントを下げたということはインフレ予想が低くなったということになります。
    http://ecodb.net/country/JP/imf_inflation.html


    >なぜ日米でそのような民間投資の反応度の差が発生するのだろうか、と考えています。

    これは、実質金利の差によるものと考えられます。
    アメリカはもともとの金利が高かったので、インフレ予想のポイントが高くなると、実質金利は大幅に下がります(マイナス)。反応は大きいでしょう。

    日本は名目金利はほぼ0です。そこに低い予想では金利低下幅はわずかか、インフレ率がマイナスになれば実質金利は逆にプラスになってしまいます。
    この差が反応の違いになって現れると思います。


    デフレの定義については野口氏はわかりませんが、岩田氏はこの著作で2パーセント以下のインフレ率がデフレ・リスクの赤信号としていましたね。

    新たなエントリの執筆中かと思われますが、お邪魔してしまい申し訳ありませんでした。
    2012.01.21 Sat l ラヴログ. URL l 編集
    Re: No title

    > 新たなエントリの執筆中かと思われますが、お邪魔してしまい申し訳ありませんでした。

    いえいえ、貴重なご指摘をいただき、ありがとうございます。

    ご指摘の件も踏まえて、内容を修正したいと考えているところです。また、続きを記載いたしましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

    2012.01.21 Sat l Liberalist77. URL l 編集

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